狩猟について その2

 
 
去年の秋から始めた狩猟、すでに4頭の鹿を獲り、食べた。
実際に獲るなかで考えたこと、狩猟始めたことで考えるようになったことを整理したい。
 
内容は3つに分けられる。①目的と②効用、最後に③倫理の問題についてだ。
狩猟を始めて以来、「なぜ狩猟をするのか」「かわいそう。残酷だね」と言われることが多い。「なぜ始めたのか」「なにが良いのか」という目的と効用を語ることで、はじめの質問に答えたい。また狩猟がひどいかどうかは倫理の問題であるので、これも考えたい。
 
北海道に来たことも大きなきっかけだが、もともと自然の中にいるのが好きだった。大学院の終わり、卒業旅行と称して山の中に篭ったこともある。道のないような山をどんどん進んでいったらどうなるのか。社会からできる限り離れてみたかった。そんな山奥で生きていくには、山の生態系に入る必要があり、それはすなわち狩猟採集というスタイルになる。もちろんいまは雇われの身であり、そんな仙人のような生活はできないだろう。
ただ、それでも週末ハンターとして、山に入り生態系の一端を覗くことはできるのではないか。それはおそらく自分にとってエキサイティングなことだと思った。世界の別の見方を教えてくれるだろうと期待した。山奥に入り、ひとり獲って食べたりすることで、普段所属する社会やその常識から遠ざかったり、別の考え方を身に付けたかったのだ。
 
では、実際に始めてどうだったか。幸運なことに、ぼくは狩猟一日目にして鹿が獲れてしまった。狩猟スタイルにも色々あるのだが、ぼくは上述の目的に沿って〈単独忍び猟)という方法を選んだ。それは文字通り「ひとり山に分け入り、獲物の痕跡を追いながら忍ぶ猟」である。他に犬や車を使ったり、複数人で獲物を追い立てる猟もあるが、それらとは異なる。特徴があるとすれば、難しいのだ。「鹿にそもそも出会えない」、「鹿に逃げられる」、「弾が当たらない」等の関門があり、数年やっても獲れないひともいる。ぼくが見つけた猟場は急斜面で他のハンターがいないが、鹿は多かった。一頭目を獲った後もその山に通い続けた。鹿がなにを食べ、どのようなところで寝て、いつ山を下りてくるのか、まだまだ未熟だが、少しずつわかってきた。知識や経験を増やし使いながら鹿を追うのは面白い。そして山の美しい世界に出会う。何度も獲れない日はあるけれど、そんな日も山の上で昼ご飯を食べ、コーヒーでも飲んでいれば楽しいのだ。一度獲れてしまえば、満足して狩猟への興味を失ってしまう可能性もあるかもと考えてきたが、杞憂だった。狩猟は面白い。
 
もうひとつ効用がある。鹿の肉だ。思っていた以上に鹿の肉は美味しいし、調理のしがいがある。11月以降、市販の精肉は買っていない代わりに低温調理器やミンサー、真空パック機などを購入し、燻製、ソーセージなど食肉加工に励んでいる。鹿肉レシピを蒐集していて思うのは、鹿は中華や洋食との相性が良いことだ。牛の赤身肉と味が近いため、青椒牛肉絲や水煮牛肉などを作ると最高にうまい。ぜひやってみてほしい。
 
さて、最後に倫理の問題である。これはハンターが最も問われる観点である。「残酷」、「かわいそう」、よく言われる。「かわいそう」については、実際ぼく自身も鹿を撃つとき、あるいはとめ刺しをする際は、思わざるをえない。ぼくがいなければ、この鹿はここでは死ななかっただろう。たとえ誰かが代わりに撃ったとしても、撃ったのは僕自身なのだ。ただ、だからこそ、少しも無駄にせず食べようと思うし、その鹿はぼくの血肉になっていると感じる。いただきます、と心から言うようになった。
一方で「残酷」については不当だと感じることもある。食べるために殺すという意味においては、スーパーで買ってくる肉も同じように「生きている動物を殺し、捌いて得られた肉」である。その過程を自分でやるか、見ないことにしているかの違いだ。個人的には見ないことにしているほうが残酷だと感じる。
 
おそらく狩猟を残酷だという場合、それは人間にとっての残酷さなのだと思う。ハンターとはわざわざグロテスクなことを行い、普段なら見なくていいものを顕在化してしまう存在なのだ。人間たちは動物を殺し食べるという、本来残酷なことをしている、それを思い出させてしまう存在はやはり嫌がられるものだ。フランス料理店でジビエを食べて、残酷だと思う人間は少ないのではないかと思う。多くのひとにとってそれはもうスーパーの肉と変わらないのだ。
反対に動物にとっての残酷さという観点もある。動物から考えれば、どちらも殺すという点では同じであり、大差はないように見えるかもしれない。だが、両者は量的に異なる。スーパーの肉は牧畜を由来とし、ハンターの肉は狩猟を由来とする。歴史的にみれば、狩猟は動物を絶滅に追い込んできたし、牧畜は動物を劣悪な環境に追いやってきた。実際的に現在の日本社会を考えたとき、どちらがより動物にとって残酷かを考えれば、おそらくスーパーの肉だろう。劣悪な環境で育てられ、誰にも知られずに大量に殺され、夜8時には値引きされる。無慈悲で大切にしないことを残酷と言うのならば、これこそが残酷といえる。動物と対面することなく、大切にする機会さえ与えられないシステムなのだから。
もちろん、狩猟が残酷ではないと言いたいわけではない。肉だけを求めたり、大きい角だけを求めて鹿撃ちをするひともいる。あるいは大きく狩猟の範囲を広げ、各自治体が行う有害鳥獣捕獲も狩猟に含めると、年間の捕獲数は3.5倍程度に膨らむ。そして、そのほとんどは食べられず、捨てられていくという(ジビエ利用は1割程度)。こんなにもジビエ利用が少ないのは、狩猟が鳥獣から里山を守る活動になっているからだろう。食べるためではなく守るためであり、だからこそ食肉とか無関係に獲ることになる。「守る」ことも人間社会の論理であることは間違いない。狩猟もまた単なる「獲って食べる」という簡単な定義にはおさまらない活動であり、残酷な面を持ち得る。
 
 少し長くなってしまった。狩猟が残酷かどうかについては、狩猟や残酷の定義にもよる。たしかに狩猟は残酷だが、それはどれも狩猟ではなく、社会そのものがもつ残酷さを見せているだけなのだと考える。いつか人間社会がもっと動物に優しくなれば、狩猟もなくなるのかもしれない。それは例えば、ひとは生態系とは分断され、フェイクミートを食べる、そんな世界だ。
 
以上で最近考えていることを記述し終えたと思う。