旅する心

 

前回の記事では、帰省し今年は友人を訪ねる年にしようと決めた。

そしてその直後から東京でも新型コロナ感染者が増加、日本は緊急事態宣言下に入った。

 

4月の半ばから仕事ができる状態ではなくなり、在宅勤務になった。

5月いっぱいまで家で過ごした。とても充実した毎日だった。

古代ギリシアではないが、十分な余暇時間は文化を発展させる。ぼくは紹興酒の研究を始めたし、ウクレレを買った。

その他実にいろいろなものを購入し、自宅を快適にしていった。

 

6月からは元の生活に戻ってしまった。

この間に3人の女性と付き合い、別れた。このことにどんな意味があったのかはわからないが、彼女たちにとってはひどい話だ。

8月から気球の機材を期間限定で手に入れた。今週末には十勝にフライトしに行く。

来週末には旭川にオンラインで出会った女性に会いに行く。その次の週末も旭川にオンラインで出会った女性に会いに行く。

 

なにを求めてぼくは移動するのだろうか。オンラインではできないことだろうか。

この数ヶ月で移動する意味が社会にとって変わってきている。その移動が仕事であれ、趣味であれ、デートであれ(デートはそもそも何か繁殖か?)、持つ意味が変わってきた。

ただ一点、旅する移動だけは意味が変わらないのではないか。旅をすることは移動することであるからだ。

仕事にも、趣味にも、デートにも付随させることが可能だ。旅する心を持つ限りにおいて。

 

移動することも目的にするとは、移動そのものに価値を置くことであり、移動に何か意味を見出している。

家にずっといてはなにも起こらないが、外に出れば何かが起こるし、それを期待する心。不確実性である。

どんな移動も心があれば旅にできる。ぼくは今月、道内を色々と移動する。それは単なるフライトやデートではなく、旅なのだと、そういうことにしてみたい。もしそうなら家を出るだけで旅になってしまうではないか。そうだ。全て旅にしよう。なにを言っているのかわからないかもしれない、ぼくもわからない。

 

なにも書かないよりかは書いた方がいい。後から読む楽しみができるからだ。