流れゆく先に

 

学生の頃、ひとに流されやすいことを悩んでいた気がする。友人たちと飲みに行き、盛り上がるままに二次会、三次会とはしごしていく。家で彼女が待っていても、なんとなく帰る約束もしてないし、まあいいかなと飲み続け、大抵帰ると怒られるのだ。

 

あるいはひとに愛を告白されるとよく考えずにオッケーしてしまう。相手を悲しませたくない思いでつい言ってしまうが、良い結果は生まない。むしろひどいことになる方が多い。

 

このような八方美人的な、あるいは酔っ払い的な流されやすさを反省してきたのだが、

(考えてみれば、酔っ払いの研究も実存的な問いとしてはこのあたりが起源な気がする)

最近はそんなことを気にも留めなくなった。

 

成長したのだろうか。

頑固と呼ばれることも増えた。自分の意見をしっかり持つようになったと捉えることもできる。嬉しく思う。

 

ただ、周りにひとがいなくなったと考えることもできる。流してくれる人間たちがいなくなってしまったのだ。それは認めざるをえない。ひとりではひとは流されようもない。

 

待て、伴侶がいるじゃないか。もしや伴侶に流されてやしないかと考え、膝を打つ。

流された先にいた伴侶であった。